この記事はサカナクションの名曲『ドキュメント』の歌詞を一部イタリア語に翻訳した際に、日本語としての美しさはどこへいくのかの検証を試みたものです。
なぜサカナクションの「ドキュメント」なのか
サカナクションを好きになったのは、15年ほど前のことだ。
きっかけは大学の同級生がいつも車の中でサカナクションのCDをかけていたことだった。気づいたときには何度も聴いていて、カラオケでも幾度となく歌ってきていた。音楽としてもちろん好きだし、届けられる言葉としても好きという感覚がある。
山口一郎さんの書く歌詞には、分かりやすい感情もストレートな表現もない。にも拘わらず、感情を強く揺さぶり、視聴者の心をグッと掴むものが明確にある。それには、作曲や演奏、歌唱の力はもちろん、何よりも緻密に取捨選択された歌詞が大きく影響している。また、その言葉の選定に日本語ならではの奥行きが加わり、繊細ながらも重厚な質感が出来上がる。
今回試みた実験はこうです。日本語として美しい歌詞をイタリア語に訳したとき、その美しさはどこへいくのか。サカナクションは自分たちの音楽の世界観をとても意識的に考えているアーティストだと思っていて、その確立された個性や特徴こそが、イタリア語が言語として持つエネルギーに通じるものがあると感じているため、サカナクションを検証の対象として選びました。
サカナクションの曲の中でも2013年リリースの『ドキュメント』を題材に選んだのは、個人的に好きな曲だからです。今回は、ずっと好きな2つの一節に絞ってトライしてみました。
なお、サカナクションファンとして主観が入ることをご承知おきください。
曲なので、本来であれば音楽も重要な構成要素ですが、ここでは歌詞を詩として取り扱うため、メロディには乗せず翻訳実験いたします。
また、翻訳は正解を出す作業ではありません。どこで詰まるかが、面白いと思っています。
一節目:Bメロからの一節
疲れてる夜は一人で僕眠るんだ
だけどすぐに目が覚め
飲みかけの水を全部飲んでしまった
なのに残った乾き
Bメロの歌詞で、サビへの助走になる部分です。
まず直訳に近いイタリア語に訳してみた。
Nelle notti stanche, mi addormento da solo
ma mi sveglio poco dopo.
L’acqua lasciata a metà, l’ho bevuta tutta
ma ancora mi rimane l’aridità.
意味は通じる。でも訳しながら、3箇所で詰まりました。
「飲みかけ」に対応する言葉がない
「飲みかけ」は「途中まで飲んだ状態の」を意味する複合語。シンプルで使用頻度も高いのに、完了でも未完了でもなく、中断という状態をたったの一語で表している。イタリア語にはこれに対応する単語が存在しない。
l’acqua lasciata a metà(途中でやめた水)と説明するしかなく、2文字が8文字にもなる。それだけで詩としての密度がどうしても変わってしまう。「飲みかけ」「読みかけ」「書きかけ」──この「〜かけ」という日本語の接辞は、イタリア語では毎回説明文になってしまいます。
「しまった」の諦念
「飲んでしまった」の「しまった」は、後悔と諦念が混ざった補助動詞です。「望んでいたわけじゃないけれど、気がついたら飲み切っていた」というニュアンス。イタリア語の l’ho bevuta tutta(全部飲んだ)は事実の記述で、そのニュアンスは持たない。
finire を使って l’ho finita と言えば「飲み干した」になるが、やはり完了の事実が前に出てしまいます。「しまった」が持つ「なし崩し感」を文法で表現する手段が、イタリア語にはない。
また、purtroppo(残念ながら)を追加すると、残念さが前に出てしまい、ahimè(あぁ)だと落胆や悲しみが強く、感嘆句ならではの「ちょいと過ぎた演出」になってしまう気がします。
「乾き」という言葉の発見
いちばん好きなのが「乾き」だ。「渇き(英:thirst)」ではなく「乾き(英:dryness)」という選択。
喉が乾いているのではなく、乾いているという状態が、物のように残っている。名詞として独立することで、物理的な存在感が増す。
イタリア語の sete(渇き)は生理的な欲求感が強い。訳語を探す中で、aridità, arsura, secchezza などが挙がってきた。ただ、arsura は焼けつくような渇き・乾燥を指す詩的な単語で、詩には向くものの日常会話ではあまり使われず、「乾き」のような日常感がない。一方で secchezza は日常感があるものの、素っ気なく感じる。今回選んだ aridità は、気候や土地の乾きのみならず、感情や想像力、精神力の乏しさを表す際にも使用されるため、日本語の「渇き」をかけた「乾き」の両義性を一部反映することができるかと思いました。
二節目:サビからの一節
この世界は僕のもの
どこからか話してる声がするよ
すぐに何かに負けて涙流す
君と僕は似てるな
個人的に、大好きな一節です。
Questo mondo è mio.
Sento da qualche parte una voce che parla.
Ci arrendiamo facilmente e versiamo lacrime,
io e te ci somigliamo, sai.
意味の骨格は残るものの、以下の3か所で詰まりました。
宣言から脆さへの落差
「この世界は僕のもの」、1行目は広大です。無垢な宣言のようにも聞こえるこの一文は、イタリア語の Questo mondo è mio にしても同じ直截さを持っていて、ここは意外なほど素直に訳せた気がします。
ところが、2行目で景色が変わる。
「どこからか話してる声がするよ」──世界を所有すると言った人間が、どこから来るか分からない声を聴いているのです。そして3行目、4行目で完全に着地する。何かにすぐ負けて泣く。君と僕は似てる。
世界は僕のものだと言いながら、やすやすと涙を流す。ただ、矛盾しているとは感じられず、むしろ人間はそういうものだ、という観察結果のようにも思えます。大きく構えるほど、崩れるときの脆さが際立つ。この落差が、この4行の核心だと思います。そしてイタリア語に訳しても、この落差の構造は残ったように思えます。
「がする」の受動性
「どこからか話してる声がするよ」の「がする」は、能動的に「聞こえる」のではなく、感覚として立ち上がってくるような受動的なイメージを持たせます。イタリア語の sento(聞こえる/感じる)は、もう少し能動的で、「私が聴いている」という主体がどうしても前に出てしまいます。
日本語の「がする」は、声が向こうからやってくる感じで、主体が薄いと言えます。この曖昧な受動性が、「どこからか」という不確かさとぴったり合っており、イタリア語に訳すと少し鮮明になりすぎるように感じます。
「な」という終助詞の問題
最大の難所は、最終行の末尾の「な」でした。
vero?(そうでしょ?)→ 確認が強すぎる
no? → 軽すぎる
eh → 話し言葉すぎる
私は sai(知ってるよね)を選んでみました。親しみを帯びた語りかけとして、一番近い気がしました。でも sai は、少し照れ隠しのように聞こえます。原文の「な」が持つ、ためらいのない柔らかさは反映しない。
日本語は終助詞ひとつで、声のトーンまでを運ぶことができる。イタリア語でそれをしようとすると、単語を足すか、イントネーションに頼るしかなく、文字にした瞬間、何かが抜け落ちるような印象です。
翻訳してわかったこと:二つの言語の「感情の運び方」
訳し終えて、二つの言語の輪郭が見えた気がします。
日本語は、余白と省略で感情を運ぶ言語だ。「似てるな」の「な」ひとつに、関係性と感情と問いかけと答えが同居しているように思えます。言わないことで、言う。
イタリア語は、言葉で感情を開いていく言語かなと思います。省略ではなく、言葉にすることで温度を出す。だから翻訳すると、どうしても言葉が増える。増えた分だけ、余白が埋まってしまう。
どちらの言語が豊かという話ではなく、質感が違うのだと思います。
翻訳は、ある言語の美しさを別の言語に移す作業ではなく、元の美しさの輪郭を、別の光で照らす作業なのかも知れません。そう思うと、うまく訳せなかった部分が一番面白い。
イタリア人が読んだらどう感じるか
今回、日本語もサカナクションのことも知らないイタリア人の友人2名に訳した言葉を読んでもらい、所感を聞かせていただきました。
言葉だけ読むと、「bellissima(美しい、最高に素晴らしい)」「deprimente(憂鬱)だけれど、とてもpoetica(詩的)に感じる」「ci sta, mi piace l’idea(いいね=納得できる、アイデアを気に入った)」という感想をいただきました。また、原曲を聴いてみたいということで、YouTubeで視聴してもらったのち「una canzone molto rilassante(とてもリラックスできる曲)」という意見が出ました。
納得や称賛など、肯定的なフィードバックをいただきました。憂鬱さを帯びているものの、表現の組み合わせや言いたいことに対する理解があったと言えるでしょう。イタリア語にすることによって、元の日本語に合った余白が埋まってしまい、失われるものも存在する一方で、異文化間でも通じる意味の核は残され、イタリア人が受け止めやすいより鮮明な表現として伝えられたように思います。
イタリア語を学んでいる方へ
この実験には、他にも気づきがありました。
日本語から出発してイタリア語を学ぶとき、私たちは往々にして「イタリア語で同じことを言う方法」を探しがちですが、本当はイタリア語には日本語と異なる解像度がある。
「飲みかけ」をイタリア語で一語で言えないのは、イタリア語の欠点ではありません。逆にイタリア語は、例えば感情の主体と対象の関係を日本語より細かく文法に組み込むことができる言語です。(例:「mi manca(あなたが恋しい)」が「私に、あなたが、欠けている」という構造をしているように。)
言語を学ぶということは、新しい言葉を覚えることだけではなく、新しい解像度を手に入れることなのかも知れません。
また、イタリア語に何らかの魅力を感じて学習する方も多いかと思いますが、日本語もまたとても素晴らしい言語だと気づかされます。それがこの実験のもう一つの収穫だと思います。
おわりに
本記事を通じて、イタリア語の美しさのみならず、日本語の美しさにもお気づきいただけたのではないでしょうか。この企画、続けてみようと思っています。他のサカナクションの曲でもできますし、逆にイタリア語の曲を日本語に訳す実験も面白そうです。どちらの方向に渡っても、言語の質感の違いが見えてくるでしょう。
※本記事で引用している歌詞は、批評・考察を目的とした引用です。著作権はすべて原著作者に帰属します。
